2017年 02月 20日
待合室 |
治療が終わって待合室に戻ると、濃厚な香水の香りが漂っていた。部屋の隅にプラチナブロンドの女が座っている。白い長い指で携帯電話を耳に押しあて、ささやくように、声を潜めて話している。歳は30前後。話しているのはロシア語だ。さっき迄そこにいた子供達の声も、その母親達の甲高い声も聞こえない。歯科院の待合室は私とそのロシア人の女の二人だけだった。大型テレビの中の喧騒はすでに止んでいて、船窓から見ている深い海の底のように静まりかえっている。女はスリムなパンツと黒革のロングブーツで包んだ長い足を、持て余すように組んでいる。かすれた声は官能的で、盗み聞くつもりもないのに、耳にまとわりついて離れない。私はクラクラとめまいを感じる。薄っぺらでのっぺりとした漫画のような日本の日常が、シリアスで陰影の深い外国映画の中に、突然入り込んでしまったような錯覚を覚える。女は壁際に身をよじるようにして話し続ける。窓の外はすっかり暮れていて、歩道を歩く人の影も見えない。気がつけば、受付の女の子も席を立ったままだ。ボーッと明るいガラス張りのこの待合室が、宵闇に浮かぶ別世界のように思えてくる。女が呼ばれて、一人きりになった私は、底のない妄想の井戸の中に落ちていった。
閉じた目の奥で明かりが揺らめいている。ピアノ曲が聞こえる。歯科医の好みだろうか、サティの「ジュ・トゥ・ヴ」意味は確か、お前が欲しい。
ブロンドの女は、診察台の上で口を開けて考えていた。「男はみんな単純ね。それにしても情けない男だわ。女に働かせて自分は遊んでいるなんて。日本の男はよく働くし正直だけど、あまりにも子供っぽくて貧弱なのよね。背が低くてもせめてプーチンくらい逞しかったら・・・」
歯科医は、女の整然と並んだ白い歯を見て、心の中でつぶやいた。「なんて綺麗な歯なんだ。日本人が草食動物なら、これは肉食獣の歯だ」その時、女の上下の犬歯が長く伸びたような幻覚を見て、ひるんだ歯科医の手元がくるった。持っていた細いピンセットの先端が女の歯肉に当たったのだ。女の蝋のような白い顔がゆがんで、眉間に深い皺が寄った。突然、伏せていた瞼がパッと開き、マスカラを塗った長い睫毛が瞬くと、大きな琥珀色の瞳がギラッと光った。
by kakoneko-nyan
| 2017-02-20 01:18
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